2009年06月24日
何故ゴール裏で戦ったのか

キャンペーン中です。でもなぜか過去形です。なぜなら…
「今はあまりゴール裏にいないから」
おそらくたまにゴール裏などに行くと、最近ゴール裏に来るようになった人は、「誰だアイツ」と思われているのではないかと思っています。年季の入ったユニフォームが、長くいる人かなと感じさせているだけなのかもしれません。
それでいてコールリーダーや代表と親しげに話してれば謎の男に見えるでしょう。
ではなぜ今、あまりゴール裏にいないか。それは
「支える側に回ったから」
ということにしておきましょう。実際にそうなのですが、アウェーでゴール裏にいかない理由にはなりませんね。
今年は思うところがあって、メインで見ることが多くなっています。
ただ応援する気持ちは一緒ですので、決してゴール裏にいた時の気持ちを失っているわけではありません。
ですので、過去の話ですがゴール裏にいた頃の話は出来ます。
ということでタイトルに戻ります。何故ゴール裏で戦ったのか。
今思い返すとこの言葉が出てきました。
「そこに仲間がいたから」
ゴール裏に行き始めた当初、というかUMの初期の頃はH氏がホームゲームのたびに、私の家まで車を走らせ一緒にアルウィンに向かっていました。
直接アルウィンに行けば早いだろうに、倍近い時間をかけて、当時太鼓を叩いていた私を拾っていました。誰かが寝坊したときは二人というときもありましたっけ。
チームや競技に直接かかわらない後ろ向きな理由に思えるかもしれませんが、でも確実にH氏でなければついていかなかったかもしれません。
実際にサッカーというゲームではなく、ゴール裏に魅力を感じている人もいるでしょう。
2005年頃から加速度的にゴール裏、もっと言えばゴール裏の中心部分にかかわる人は増えてきました。それに伴いサポの中で何かをしようとすると率先して立候補する人が増えてきました。僕がやらなくてもいなくてもまわしていけるだけの人材が増えてきました。
と同時に、そのゴール裏の観客を支える側の人間が不足しがちな状況ともなっていました。
仲間がいたその場所を気持ちよく過ごしてもらうため、より必要とされた支える側に回ったのは当然の帰結なのかもしれません。
立場は変わってもやってきたことは「山雅の仲間」を増やす活動だったのだと、書きながら思い直しました。
実際は「サポーター」とか「観客」とか「顧客」といった別の言葉に置き換えられていることが多いが、結局は「仲間」を増やす活動なんですよね。
こういう書き方をすると勝敗にこだわっていないようにも思われるかもしれませんが、そんなことはありませんし、もしゴール裏に来て他の人と一緒に喜怒哀楽を共にすると、最初そう思っていなくても勝敗には自然とこだわるようになっていく気がします。
仲間と一緒にゴール裏に来て、一喜一憂することでチームへの愛着や勝敗へのこだわりが徐々に沸いてくる。そんな感じで始めてみてもいいのかななんて思います。
まずは気軽に参加してみることから始めてみませんか。
Posted by scrumhalf at 18:44│Comments(0)
│松本山雅FC