不思議な不思議な高校野球
当然敬遠だろうと思っていた。
2002年夏の甲子園、長野県大会決勝。丸子実業対佐久長聖。
土壇場の9回裏に佐久長聖が追いつき5−5。依然ノーアウト二、三塁。
この場面三塁ランナー以外は関係ない。塁が埋まっていようがいまいが、三塁ランナーがホームに入れば、サヨナラである。したがって当然守備は守りやすい満塁策を採ると思っていた。だから一つ前の四番バッターの送りバントには首を傾げた。送っても満塁策、強攻策でゲッツーでもランナーは一人残る。送って五番が歩かされ、六番で勝負されるぐらいなら、当然打撃をかわれ四番、五番に入っているバッターに打たせるのが得策だと私は思った。
それもさることながら送りバント後、敬遠の素振りがまったく見えない。
高校野球では敬遠はご法度なのか。そんな考えがよぎったが、プロでも敬遠しそうな場面である。監督がいっさい敬遠をしない方針ならわかる。しかし、実況・解説、さらに相手ベンチまでも、敬遠というシチュエーションを想定していないのには合点がいかない。
敬遠は高校野球では卑怯なのだろうか。
よく教育の場だからという言い訳が高校野球では使われるが、だったらこんな選手に負担のかかる全国大会なんてやめればいい。やっている以上はある程度勝負にもこだわっているんだろうと見ていると、こんな場面に出くわすのだ。
ひょっとして私が高校野球を避けてしばらく見ない間に、新しい不文律でも出来たのだろうか。敬遠は高校野球にはそぐわないのでやめてくださいと。それは野球というスポーツを侮辱してやいないか。
ああ、やっぱり私には理解できそうにありません。
もし満塁策を採っていたら、今日二本も長打を打っている打者との対戦は避けられていた。満塁策ならひょっとするともう少し深めに守備位置を取っていたのではないだろうか。
というより高校野球のように登録が少なくなかったら、投手じたいを交代していたはずである。九回裏連続で四球を出した時点で。
夏の暑い時期に、ナイターもなくプロより投手に過酷な日程で行われる大会で、20人にも満たない選手登録で大会を行うこと自体異常なのである。あの逆転をされた投手の九回の表情のなさは、プレッシャーの表れであろう。そして負けたあとに彼には後悔しか残ってないであろう。彼の表情を見ていると「よくやった」という言葉さえかける気がおきない。
ここまで考えたうえで、あの試合は感動的だと言えますか。
勝者も敗者もないと言えますか。
いい勉強になったと選手にとっては慰めにもならない声をかけられますか。
ああ、やっぱり私に高校野球は理解できそうもありません。
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